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コラム 牧師の書斎から

2015年6月28日 澤村信蔵

マタイの福音書の13章44節には、宝を畑で見つけた人のたとえが記されています。この話には、現実に起こりうる背景があります。ユダヤは、数百年にもわたって強大な隣国から繰り返し攻め込まれます。危機に瀕した時、人々は取るものも取りあえず逃げます。そして、後から掘り出そうと、畑の隅に大切な金や宝石などを壺に入れて埋めておきました。すぐに帰還出来た人は、宝を回収できましたが、中には、逃れた先で死んでしまうこともありました。だから、畑には、人知れず宝が残されているということがあったのです。たまたまそのような畑を耕している農夫が、偶然宝を掘り当てたら、その宝は、畑を丸ごと買っても余りある価値である財宝だと一目見て分かるほどのものだった。神の国はそのようなものだと語るのです。

神の国という宝は、私たちが気づいていなくてもすでにそこにあるということです。私たちが気づかないうちからもうすでに神の国(支配)、恵み、祝福は、始まっているのです。そして、神の国の宝、恵みは、他のものすべてに勝るほどの祝福なのです。先日、佐藤定兄の納骨式を行いました。定兄の奥様である良恵姉は、非常に熱心な成増教会のメンバーで、女性会の会長までされた方です。しかし、良恵姉の生前には、定兄は、洗礼を受けることはありませんでした。でも、良恵姉が召されて、確かに天国に行ったことを知った時、天国という存在、神の国の存在が定兄にとって身近で、とても大切なものへと変わっていきました。この天国へ行きたいという切なる願いから、洗礼を受けられました。まさにこのたとえのようですね。

そして、神の国の宝は、天国へ行くというだけではありません。この地上にあっても神の国、神とともに歩むという事は最高の人生です。「大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」とあるように、神の国を見出したものには喜びがあります。私たちは、最高の宝を見出し、最高の宝を持つ人生を今歩んでいるのです。