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コラム 牧師の書斎から

2015年8月23日 澤村信蔵

毎月第4土曜日は、聖書を学ぶ会です。「聖書はさらに物語る」という本をともに読んでいます。2年目に入り、今度は人物に焦点があたり、その人物から様々なことを学んでいます。8月はノアでした。自然災害が起こるそのような時に、神は何をしていたのかということがテーマでした。

一つ明確に言えること、それは、自然災害は神の裁きではないということです。神様自身が、「もはや大洪水で地を滅ぼすことはない」と語られているからです。その上、裁きであるならば「だれがどのような理由で裁かれるのか」が明確でなければなりません。自然災害は、すべての人が無差別にその被害を受けます。だから個人に対する裁きではありえません。また国や世界全体に対する裁きだと言う人もいますが、この場合も裁きの理由が分かりません。さらに言えばノアの時代は、ノアの家族が方舟を作る様子を周りの人々が見ていました。自らも方舟を作ることも出来たはずです。その間神の警告を受けていたにも関わらず、そうしなかったために自ら滅びを招いたのです。

では、神が積極的に災害を起こしたのでなければ、そのとき神は何をしていたのでしょう。これは自然災害だけでなく悲しみの中にある時に繰り返さずにはおれない問いです。でも、大切なことがあります。一つは、神様はその悲しみの時にそばに寄り添っていてくださるということです。そして私たちとともに痛んでくださっているのです。

そして、二つ目は、神は災害のただ中で被害を最小限にとどめるために、私たちを通して苦闘しておられるということです。あるおばあちゃんが、自分は津波から逃れられないという事を悟ると、ご主人と孫娘に向かって、「生きろよ。こっち見るな、後ろを振り向くな、頑張っていきよ、万歳、万歳」と叫びながら飲み込まれていったそうです。この生き方も神が与えられたものです。この方がどのような人生を送ってきたかわかりません。でも、すべての良い物の源は神だからです。このような例を挙げるときりがないでしょう。神はそこにもおられるのです。神は人を通して、人とともに、自然災害と戦っておられるのです。