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コラム 牧師の書斎から

2015年11月1日 小平牧生

 私たち日本人は、島国であったり長い鎖国の歴史的影響もあるのでしょうか、自分たちの考え方を「ふつう」「常識」「当然」のこととして考えます。ところが、文化や習慣がちがう人々と一緒に過ごすと、それが必ずしも「ふつう」「常識」「当然」ではなく、私たちの「あ たり前」があたり前ではないという現実に直面します。先日、韓国での宣教会議に出席しましたが、そこでは時間が予定通りに進まなかろうが、役割がはっきりしていなかろうが、すべてケンチャナヨ(だいじょうぶ、心配ない、構わない)で進められていきました。行く前に「何を準備していけば良いか」とメールを送っても返事は来ません。これは、準備することは良いことだと信じてやまな い私たちにとっては、大きなカルチャーショックです。 しかし帰ってきてからそんな話を笑い話のようにしていたら、「どこでもそうだよ」という話になりました。外国に宣教師として奉仕していた方々や、西欧のミッションによって始められた教団の牧師たちに言わせると、「むしろ日本人が変わっている」のだそうです。そして、そういうことにどんなに苦労したかという話を山のように聞かせられることになりました。このあたりはいろいろ意見があるでしょうし、教会と一般では差異もあるかもしれません。
 いずれにしても、私たち日本人は問題点から考え始める習性というか体質があるのだろうと思います。つまり、準備をすることでそれを消していくのですね。でもそのことによって、教会でもそうですが、話していると大変なことばかりが出てきてしまって、結局何も始まらないというか、話し合ってばかりで進まないということが何度もあります。それは日本の伝道の大きな課題です。ある韓国の先生に言われました。「イエス様の弟子たちを見てくだ さい。行けと言われたらまず出て行って、問題が起こったら祈った。 日本の教会はする前に納得しなければ始めない。むつかしいことを言い過ぎるよ。聖霊様が働かれないよ。」うーん。よく準備をして、その上で聖霊によって修正していただきながら歩む。そう生きたいと思うのですけれど…。