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コラム 牧師の書斎から

2015年12月6日 澤村信蔵

ネパールに行ったとき、一つの忘れられない光景があります。ティハールという光の祭りの真っ只中にも関わらず、日本から比べると非常に暗い街でした。少し脇道入ると、携帯のライトをつけてないと危なくて歩けないそういう状況でした。夜、福澤牧人師が宣教師時代に住んでおられた場所に行きました。大きなお寺から歩いてすぐのところにその場所はありました。エペソの町と同じくは、銅像や僧侶の着物を作る店などまさしくお寺があるから成り立つ商売がここそこにありました。その中でひときわ明るい場所、それは蝋燭を売っている場所でした。真っ暗闇だからこそ、その蝋燭の光が輝いて見えました。でも、ふと目を移すと、そこには、火のともされていない多数の蝋燭もありました。光がともされていない真っ暗な場所と、光がともされて輝いている場所がそこにあったのです。
 それを見て、まさしくこのクリスマスに起きた出来事を思い起こしました。「 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)とあるようにまさに主イエスは私たちのために光として来てくださいました。そして、闇はこれに打ち勝たなかったとあるように、闇が深ければ深いほど光は照り輝くのです。私たちのどんな暗闇も打ち破ってくださるまことの光が主イエスなのです。
 この光は、信じる私たちにも与えられています。「あなたがたは世の光です。」と主は私たちにいのちを与え、希望を与え、愛を与え、この暗い世界にあって光り輝くものとしてくださったのです。なんという恵みでしょうか。
 しかし、同じ蝋燭でありながら、光輝いていない蝋燭も私たちのすぐそばにあります。違いは、ただ一つ火がついているか、光を与えられているかだけです。私たちの周りにいるどんな人にも、すべての人を照らす光として主イエスは来てくださったのです。火がついていないだけで、本来は光輝くことができる方々が私たちの周りにはたくさんおられるのです。このクリスマスも私たちはこの素晴らしいイエス様を伝えていきましょう。