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コラム 牧師の書斎から

2016年3月6日 澤村信蔵

今週の金曜日、東日本大震災から丸5年になります。あと1週間ということでテレビや新聞なども、特集を組んでいました。まだ遅々として進まない復興事業や、住民の願いとはかけ離れたところで行われる事業など、戸惑いやいら立ちなどを覚える様子が取り上げられていました。特に、福島原発については、未だに収拾の方法を確立することが出来ない中で、今も奮闘しておられる方々がいることを感謝します。そして、ようやく原発に敷地内の休憩所にコンビニも開店したというニュースも流れていましたが、まだ、そこでは調理が出来ないとのことです。そう思うと、どれほど困難な中で戦っておられるのか、なお彼らのために祈りをささげました。

しかし、同時にそういう状況を全く見ていないかのように、原発が再開し、普段の生活では忘れ去られた状況になりつつあることも事実です。私たちは彼らのことを忘れず祈ることが大切です。それとともに、天災は忘れたころにやって来るとも言われますが、備えを忘れている自分にも気づかされます。

でもそれより大切な備えがあります。それは主イエスが来られることの備えです。マタイ25章に賢い娘たちと、愚かな娘のたとえが記されています。ともにともしびは持っていましたが、愚かな娘たちは、油を用意していませんでした。賢い娘たちは、入れ物に油を入れて用意していました。夜中になって、いざ花婿が帰ってくるというその時に、愚かな娘たちは油がなくなってしまいます。油を買いに行っている間に、一番大切な花婿を迎える時を逃してしまうのです。まさに、油がない、油断をしていたのです。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(IIペテロ3:10)とあるように、いつ来るのかいつ来るのかと待ち構えていた時ではない時に主は来られるかもしれません。でも、その時、しっかりと油を用意していれば、あわてることはないのです。油とは聖霊様です。日々、神様と交わり、聖霊様とともに歩んでいるなら、何があってもあわてないのです。私たちは今日も最高の備えをさせていただきましょう。