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コラム 牧師の書斎から

2016年3月20日 澤村信蔵

来週イースターを迎えますが、イースターは、毎年日付が変わります。イエス様が十字架につけられたのが、過ぎ越しの祭りの時だったからです。ユダヤ教の暦は、太陰暦なので、太陽暦に当てはめると毎年変わってしまうのです。過ぎ越しは、ユダヤ教の祭りの中でも、最大のもので、今も多くの人がお祝いをしている祭りです。奴隷であった民が、エジプトから脱出したことを記念として、神様の素晴らしい御業を覚えるために、お祝します。ユダヤ教では男性社会ですので、過ぎ越しの祭りも主に男性が行っていきます。でも、女性がたった一つだけすることがあります。それは、最初にろうそくに火をともすことです。これは女性の役割です。イエス様というこの世の光をこの地上にもたらしたのも、マリヤと言う女性でした。異邦人の町ガリラヤは、「暗やみの中にすわっていた民は、偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に光が上った」(マタイ4:16)とあります。主イエスがそのところで福音を語られ、良い業をなされたからです。まさに、貧しい人、罪人と呼ばれる人にとっては、イエス様は光そのものでした。でも、光を放つということは、燃えなければなりません。ある意味では、イエス様は、自分の体を、いのちを燃やしながら、輝いてくださったのです。私たちの為にすべてのことを犠牲にして光となってくださったのです。「人間の息は主のともしび」(箴言20章27節)ともありますが、私たちは、生まれつきのままでは火のついていないろうそくのようです。ろうそくは、光を放つように出来ています。しかし、光を付けなければ、ただ冷たく真暗なままです。同じように、私たちも生まれつき燃え上がり、神の性質を現すことが出来る者として造られています。まことの光、主イエスを受け入れ信じるなら、私たちもこの世にあって光として輝くことが出来るのです。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)私たちも神様のために燃え続けるものとさせていただきましょう。