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コラム 牧師の書斎から

2016年9月11日 澤村信蔵

 先日、東京聖書学院のリトリートに参加したのですが、その中で西岡先生が語ってくださったメッセージが心に残りました。マタイ5章48節「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」この箇所で語っている完全とは何でしょう。何も間違いをしないという完全ではなく、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らしてくださる」(45節)という、誰に対しても分け隔てないところの愛の姿です。
 一人の少女のことを話してくださったのですが、彼女は、生まれつき耳が聞こえないので、どこに行っても拒絶されるそういうことを経験してきました。そして、教会に来ても、話が通じないし、何か表現しようとすると、加減が分からず、大きな言葉にならない言葉でわめくようにしてしまい、周りからさらに拒絶感を味わうそういう事を繰り返していました。どこに行っても受け入れられことはありませんでした。でも、今回親に騙されるような形で夏季学校に参加させられました。最初はひどく不機嫌でした。でも、1人のボランティアのスタッフが彼女の心を変えました。その方は、別の教会の方なのですが、この一人の子のために手話通訳をしてくださるために来られました。最初の賛美からもうノリノリで手話をしてくださったのですが、女の子は、全くそれに反応するそぶりもなく、目をつむっているそんな状況でした。それでも、あきらめず変わらず手話をし続けていく中で、目をふとあけた時、変わらず手話をし続けてくれたその方によって、自分は受け入れられていると感じ、メッセージやカウンセリングまで手話通訳で受け取ることができました。そして、次の日には、今度は自分から手話を教えて、周りとコミュニケーションを取るように変えられていったのです。誰かに受け入れてくれられたと知ると人は変えられるのです。でも、普段そのような人を排除しているのが私たちでかも知れません。でも、もし私たちがひとりの人を受け入れていくなら、きっとその人は変わっていくはずです。「天の父が完全なように、完全でありなさい」このお言葉に従う者とさせていただきましょう。