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コラム 牧師の書斎から

2017年11月12日 澤村信蔵

アメリカ人の作家デービッド・フォスター・ウォレスは、ケニヨン大学卒業式スピーチの中でこんな言葉を残しています。「誰もが何かを礼拝する。我々に与えられている唯一の選択肢は、何を拝むかです。神を礼拝している人は他に選択肢がないからです。もし、神以外の何かを拝むとしたら、それがどんなものであっても、君たちは食われるだろう。お金や物を拝むなら、そこに人生の意味を見出したいと思うなら、決して満たされず、決して満たされたと感じないだろう。自分の肉体や容姿の美しさを、性的魅力を拝むなら、いつでも自分は醜いとしか思えないだろう。このような礼拝形式の硬骨さは、それ自体が悪であり罪深いというところにはない。むしろそれが無意識に行われるというところだ。」確かに、その通りですね、何かを礼拝しようといくら夢中になっていっても満たされないのです。決してお金や物が悪いわけでも、肉体の美しさを自分や相手に求めることは悪いことではありません。むしろすばらしいものです。でも、それを心の中心に据え、それで心を満たそうとするといくらやっても満たされない。さらに追い求めると時には、行き詰り、ひどい時には破たんにまで至るのです。聖書のソロモンの例を挙げるまでもなく、多くのものを手に入れてもなお空しいという人は多いのです。そして、この真理が分かっているだけでも不十分です。これほどの真理が分かっていた無宗教だったウォレス自身がこのスピーチから数年後に自死を選んだのです。でも、私たちを満たすことができるお方はおられるのです。神のようなものを拝むのではなく、神を拝むのです。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人のうちで泉となり永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)イエス・キリストだけが私たちのたましいの渇きをいやしてくださるのみならず、内からあふれるようにしてくださるのです。