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コラム 牧師の書斎から

2018年9月16日 澤村信蔵

明日は敬老の日、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日です。そして、今日は敬老祝福礼拝を行います。ただ、祝日があるからお祝いをするというのではありません。神ご自身が敬老の方々を祝福し、尊重するようにと語っておられるからです。箴言では「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」(16:31)、「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。」(20:29)と高齢者の尊厳を語ります。また、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32)神は、高齢者を敬愛する大切さを教えます。高齢者を敬うことは、神を敬うことでもあるのです。
 でも、同時に、老いることの辛さも聖書は語っています。その面だけを見ると仏教のいう四苦八苦のように思うようにはならない人生、誰もが衰え、やがて死んで行く現実は変わらないことを認めざるを得ません。特に伝道者の書12章はそのことを示しています。「『また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に』・・・その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる」と。」
 しかし、同時に、神は言われます。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」(イザヤ46:3-4)神が与える長寿は、辛いだけでなく、神が背負い、満たしてくださる人生でもあるのです。私たちの人生の歩みは、今がいかに辛くとも、主の御国へと向かって日々を歩む希望が、常に与えられているのです。