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コラム 牧師の書斎から

2019年2月10日 澤村信蔵

昨日、不思議な式に参加しました。二分の一成人式です。成人に達する年齢20歳の半分に当たる10歳の誕生日を迎える小学4年生が、自分の将来の夢や、育ててくれた親に対する感謝などを話したり、手紙を渡したりします。親としては、子どもの成長を感じられるもので良いのかもしれませんが、最後までわからなったのは、なぜ(二分の一)成人式という言葉を使うのかということです。成人式には、20歳を機に、責任も伴う大人として生きていく自覚や決意をするという意味があります。でも、その半分の年齢には全く意味がないと思うからです。成人か、まだ成人になっていないかどちらかしかないからです。半分まで来てもまだ成人でないという事実は変わらないのです。それは、私たちの救いということにおいても共通するものがあります。
 半分救われているとか、もう90%救われたようなものというのは、言葉として使ったりしますが、実は全く意味がありません。神の前にあって、救われているかどうかがそこだけが問題なのです。救われていなければ、自分の行いに応じて神の裁きを受けなければなりません。でも、キリストの十字架の贖いを信じて救われているならば、もはや神からの処罰を受けることはないのです。私たちは、何か階段を上っていくようにして、いろんな段階をクリアして救われるのではないのです。一方的な恵みをただ感謝して信じるだけです。そうするならば、神が救いに入れてくださるのです。皆さんは、神を信じて救いを受けていますか?それとも受けていませんか?もし受けていないなら今日神を信じて受け入れましょう