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コラム 牧師の書斎から

2020年5月10日 澤村信蔵

 「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」マルコ2章27~28節
 この一か月会堂に集まることが出来ませんでした。今日から、会堂に来ることも可能にしましたがまだまだここに集えない方々がいることを覚えます。そういう意味では、ともに集う喜びはあるのですが、同時に心痛むことも事実です。 私たちは、主のよみがえりを記念とする主の日、日曜日に礼拝をささげています。でも旧約の時代は、安息日、土曜日に、神様を礼拝していました。そして、そのことに集中するために、すべての仕事を休み、神の前に出ていました。それが、神様の命令でした。しかし、それは神様が自分を礼拝させる手段として設けられたのではありません。そうでもしないと、休みなんて取れない状況があったからです。定期的に、身体を休め、心を切り替えて、神の前だけに出るというのが、私たち人間にとって必要なことだからです。だからこそ、神は安息日を私たちのために設けられたのです。それは、主日礼拝においても同じでしょう。この日があるからこそ、私たちはこの一週間外に出て行けるのです。私たちにとって礼拝は、時間があるからするものではありません。事情が許せばするのでもありません。神が私たちのために設けてくださったものだからこそ、何があってもささげていくのです。まだ多くの仲間が出席できない状況が続いています。一日も早くコロナが収束して、ともに主を礼拝できる日が一日も早く来ることが出来るように祈りましょう。