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コラム 牧師の書斎から

2020年8月2日 澤村信蔵

「心配することはない。またいのちがあります。」(使徒20章10節)
 メッセージを聞きながら、眠りこけて死んでしまった人が登場します。日曜日ともに集い、翌日パウロが旅立つというので、夜中までパウロを囲んでメッセージを聞いていました。そのうち、パウロのメッセージが長かったので、ユテコという名の一人の青年は、窓のところに腰かけて聞いていたのですが、うとうととしてしまって、眠りこけて下に落ちてしまいました。抱き起してみたら、なんと死んでいたのです。でも、パウロは、慌てることなく、彼を抱きかかえて言うのです。「心配することはない。まだいのちがあります。」まだという言葉は元の言葉にはありません。「彼の中に、彼の息がある」。高い所から落ちて、それでも無事でよかったという言葉ではありません。これは「ここにこそ命がある」という宣言なのです。彼の中には、確かにいのちがある。この青年は、眠りこけてしまったのですがいのちは彼のうちにあるのです。実際、この場で誰も眠った彼を責めていません。肉体の弱さの故に眠ることはあったとしても、彼が神のことばを求めてきているその姿にこそ、いのちがあると言っているようにも聞こえてきます。多くの人がこの姿をみて慰められたのです。生き返ったという事実もそうですが、彼のうちに確かな神のいのちがあるという事実があったからです。私たちも神のみことばを求めてきても、眠ることがあるかもしれません。いろいろなことを考えてみ言葉に集中できないこともあるかもしれません。でも、「心配することはない。あなたのうちにはいのちがある」と主は今日もあなたに語っておられるのです。