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コラム 牧師の書斎から

2020年8月30日 澤村信蔵

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(ガラテヤ1:10)
 人に喜ばれようとすること、人の歓心を買おうとすること、それ自体は決して悪いことではありません。しかし、ここで言われていることは、神様に喜ばれることよりも人に喜ばれることを求める、神様よりも人の目を気にする、人の評価を求める、そういう生き方が問われているのです。それはキリストのしもべとしての生き方ではない。そうではなくて、神様に喜ばれる生き方を求めていく。神様の目に何が真実であるのかを求めていく。それがキリストのしもべの生き方なのだとパウロは語るのです。
 でも、神の真実を求めて生きる時、それは時として命がけになります。実際、イエス様は、パリサイ人や祭司たちの歓心に全く気にも留めなかったからこそ、彼らに疎まれて、十字架の死を招くのです。もう少し上手に生きる方法はいくらでもあったでしょう。安息日に癒すことをしないだけでも、ずいぶん違ったでしょう。しかし、イエス様は、神様が喜ぶこと以外何一つされなかったのです。自分のいのちを危険にさらしても、神の願うことをなし続けられたのです。私たちのいのちは神様から与えられたいのちです。イエス・キリストがご自分の命をささげて与えてくださった命です。では、その命はどう用いたらいいのでしょう。神を喜ばすためことに自分のいのちを用いていくのです。