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コラム 牧師の書斎から

2023年6月4日 澤村信蔵

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』(マタイ25章40節)

先日、女性会がありました。野の花の会でも基本的には同じですが、今イエス様のたとえ話を語っています。この箇所は、最後の審判の箇所です。イエス様が再臨し、さばきの座に着かれる時、私たちを右(羊)と左(やぎ)によりわけます。右にいる者は御国を受け継ぎ、左にいる者は永遠の刑罰に入ります。その差は、途方もなく大きいですね。でも、その差を分けたのはなんでしょうか?それは、「空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、はだかでいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をし」(44節)たからです。左の人はその逆です。彼らのほんの小さな行いが評価を分けたように見えます。でも、私たちは行いではなく、信仰によって救われるのです。主イエスを信じたその一点によって、御国を受け継ぐのです。同時にイエス様を信じその愛を受けた者は、行いにおいても、良い行いが出来る者になれるのです。もし、自分の愛する家族が困難を覚えていれば、このような行いを私たちは躊躇することなく自然に行うことが出来ます。でも、他人だと思うと出来ないのです。私たちは、イエス様を信じて、隣人をも愛する愛を受けたのです。だから、イエス様を信じイエス様の愛を受けたら、自ずとその愛を周りの人、特に最も小さい人に与えていくことが出来る者となれるのです。イエス様の愛を受けた者として、私たちも喜んで愛を行っていきましょう。