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コラム 牧師の書斎から

2012年11月25日 澤村信蔵師

あなたはどんな者ですか?と聞かれたらなんと答えるでしょうか?何があるとあなたなのでしょう。私の体が私なのでしょうか?財産があるから私なのでしょうか?財産があるから私なのでしょうか?私たちは自分で獲得したものを私のものと思います。確かに、そういうことも出来るかもしれません。でも、私のものが沢山あるから私なのではありません。

そもそも、聖書によると、私の体でさえも私のものではありません。この体は、神がちりから造られってくださったものです。でも人間の肉体は不思議なものです。人とチンパンジーは遺伝子がほとんど同じだと言われていますし、ねずみと人でもほとんど変わりません。99%以上が同じ塩素配列だというデータもあるくらいです。わずか1%の違いしかないのです。ある日突然ねずみが人になったとしてもおかしくないくらいの違いしかありません。でも、そこには愕然たる違いがあります。ねずみと人とは全く違うのです。

その違いはなんなのでしょう。ねずみと人の違いなんてありすぎて困るかもしれません。手でいろんなことをすることが出来るとか、口をもって会話をすることが出来るとか、様々な人間の特徴はあります。でも、手が使えなければ人間ではないのでしょうか?口で会話ができなければ人間ではなくなるのでしょうか?どこまでなくなったら人間でなくなるのでしょう。でも何かが出来なくなることによって人間でなくなるのではないでしょう。人が人であるために、どうしても必要なものは何なのでしょう。遺伝的にはほとんど変わらないねずみと人とが違うのは、霊があるかどうかです。私が私であるのは、この霊があるからです。神が息を吹き込んでくださった霊があるからこそ「私」なのです。そして霊があるからこそ神と交わることが出来るのです。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)私たちは、霊なる者として今日も主を礼拝しましょう。そして、神と交わる時、私たちは本当の「私」になるのです。