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コラム 牧師の書斎から

2014年9月14日 澤村信蔵師

 先日、朝日新聞社長が記者会見を行い、福島原発の「吉田調書」についての記事の誤りと、慰安婦問題の発端となった「吉田証言」の記事の誤りを訂正するのが遅れたことを謝罪し、自身の進退も含めた抜本的な改革を行うことを述べた。今回の出来事で思ったことは、謝るという事の難しさです。先月の5~6日の特集において「吉田証言」の根拠がなかったと発表したのに、謝罪をしないで、むしろ自分たちのしてきたことは良かったかのような印象を与える記事を載せました。その後も、そのこと批判した池上彰氏のコラムを一旦は載せないという判断をし、その後載せるというドタバタが見えるような対応をしてしまい、結局社長が辞任をせざるを得ないというところまで追いつめられてしまったのです。過ちは分かっているのに、謝罪が出来ない。そのことによって身の破滅を招いてしまうのです。あのイスカリオテのユダもそうでした。彼は、祭司長たちに、イエス様を売り、その見返りとして銀貨30枚を手にしました。ただイエス様が十字架にかけられるとは思っていなかったようです。しかし、彼の思いとは異なり、イエス様が十字架につけられることを知り、自分がなんということをしてしまったのかと自分の過ちに気付きました。でも、彼はそこまででした。過ちに気付いたけれど、悔い改めることをしないで自死を選び、まさに身の破滅を招いてしまったのです。過ちを認めたのですから、あと一歩進んで神の前に悔い改めればよかったのにと思います。でも、その一歩が一番難しいのかもしれません。その一歩を阻んでいるもの、それは傲慢の罪です。過ちを認めても、神の前に降参は出来ないのです。自分も少しはましなところがと思ってしまうのです。詩篇19編13節に「あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。・・そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう。」とあります。傲慢の罪さえなければ、少なくとも大きな罪には至らないのです。なぜなら、小さい罪の内に神の前に悔い改めて出ることができるからです。傲慢にならず大きな罪になる前に、ごめんなさいと神の前に出る者になりましょう。