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コラム 牧師の書斎から

2015年9月6日 小平牧生

阪神大震災の翌年だったように覚えているが、ある晩、幼かった息子の呼吸が突然止まってしまったことがあった。正確な年を思い出せないのに、それが金曜日だったことは覚えている。救急車で病院に運ぶ途中で、「葬儀が日曜日に重なるなあ」と翌日からのスケジュールを考えていたことを覚えているからだ。原因は仮性クループの重症例ということであったが、幸い、救急隊員の方々の応急処置を受けて息子の生命は守られた。身近な者を天に送ったことがなかった自分にとって、この経験は永遠のいのちということについて考える機会となった。

彼がこの地上で生かされるとするならば、それは神様によって生かされ続けるということだ。しかし、もし彼が召されたするならば、それはまた神様のもとでさらにたしかな生命で生かされることになる。私たちがイエスキリストへの信仰によって永遠のいのちが与えられているということは、そういうことである。

もちろん私たち家族や身近な者にとっては、彼が地上にあって生かされるか神のもとで生かされるかは大きく違う。しかしそれは、私たちがこの目で見、肌で感じるこの世界のことであって、神様と息子の関係においては、彼が生きていても召されてもまったく何も変わらないことなのだ。

だから、私たちにとってはこの地上とその後の世の決定的な区別はない。この地上とあの世を二つに分けて人生を考える必要はない。私たちの人生は死で終わりではないのだ。生きていようが、神のもとに召されようが、私たちは創造から新天新地にいたる神の大きなご計画の中に生かされているのだ。永遠のいのちは、この地上と神の国を貫いて生きているいのちなのだ。