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コラム 牧師の書斎から

2017年7月16日 澤村信蔵

黙示録は、この世界の終わりに現れる「神の国」の完成について記されています。でも、ある面から見るならば、個々の人間の死後の世界としても読むことができます。実際に死後の世界でどのような世界であるのか分からない所があります。実際に死んでよみがえられた方は主イエスだけです。
一つ明確に言えることは、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録21:4)とあるように、死んだ後は、もはや地上のように辛いことはないということです。今も現実の世界の中で逃れることのできない苦しみの中にある方にとっては、大きな慰めを与えてくれます。でも、この地上の苦しみから逃れるというのは、消極的な感じがします。
では、積極的な面で確かに言えることは、何でしょう。それは、私たちが行くべき場所には、“あの人”がいるということです。親や子供などの家族、友人など、あの人がそこにいるのです。多くの親しい人を失うと、死が怖くなくなると言われますが、天国の方が賑やかで、懐かしいあの人に早くあいたいと思うからです。私たちにとってはそれだけではありません。私たちを愛してくださり、救ってくださった“あの人”である主イエスがおられる場所でもあります。
ただ、大きな問題があります。それは果たして自分は天国に行けるのかということです。信仰の先輩たちの歩みを見ると、この地上での戦いが戦いぬいて凱旋されていかれたと確信できます。でも、果たして自分はどうかと思うと、不安になります。先日も自分は行けるか自信がないと相談を受けました。 
私たちがもし自分の行いや信仰に根拠を置くなら不安になっても仕方ありません。でも、私たちが根拠を置くのは“あの人”です。私たちを愛して何としてでもともに住みたいと願っておられるお方です。根拠はこちら側にはなく、あちら側にあるのです。だからこそ、この地上で私たちはある意味では大胆になれるのです。なぜなら、主イエスを信じる者は、何があっても天国へと“あの人”が導いてくださるのですから。