コラム 牧師の書斎から
2025年5月25日 澤村信蔵
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ2章6~8節)
昨日は、聖書を読む会でエゼキエル書を一緒に読みました。エゼキエルが神に従わないイスラエル民にこのままではエルサレム崩壊が起こることを語るとともに、エルサレム崩壊以降はイスラエルの民の回復を語ります。神の国の完成の預言まで語っています。昨日特に心に残ったのは、エゼキエルが、今後起こるイスラエルのさばきを体験し語る象徴的な行為が沢山あることです。特に、4~5章にかけて、イスラエルの苦悩を現すために390日の間左脇を下にし、それが終わると、今度はユダの苦悩を現すために40日間右脇を下にする。そして、その間、わずかなパンと水で生活をする。その上、そのパンも牛の糞で焼くなど様々な苦悩を体験します。イスラエルのさばき、苦悩を他人事としないで、自分自身の痛みとして語っている姿をみます。その姿は、イエス様の姿でもあります。私たちの主イエスは、私たちの苦しみ、さばきをも味わってくださり、とりなしてくださるお方です。だから、私たちの痛みを本当に理解してくださることが出来るのです。私たちも、他の人の痛み、苦しみをともに担い、自分事として神の前に出る者とさせていただきましょう。



